ラベル 人生 life、 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 人生 life、 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年7月25日木曜日

林忠崇 (今日は何の日?徒然日記 より)



2010年1月22日 (金)

前代未聞!藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇


昭和十六年(1941年)1月22日、最後の大名とも呼ばれた請西藩の第3代藩主・林忠崇が94歳で亡くなりました。
・・・・・・・・・・・・
林忠崇(はやしただたか)は、嘉永元年(1848年)、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)藩主・林忠旭(ただあきら)の五男として生まれ、20歳の時に家督を継ぎ、第3代藩主となりました。
請西藩は、わずか1万石の小禄ではありましたが、祖先が真心を尽くして徳川(松平)将軍家に仕えた功績から、毎年、正月元旦には、最初に将軍からの盃を賜る名誉を持つ家柄で、そのぶん忠崇が将軍家を思う気持ちもひとしおでした。
文武両道に優れ、将来は幕府を背負って立つ器と噂された忠崇の、運命が変わるターニングポイントは、藩主になってわずか1年後に訪れます。
慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に始まった戊辰戦争・・・その後、東に向かった官軍と、それを迎える幕府軍も、西郷隆盛と勝海舟の劇的な会見(3月14日参照>>)によって直接対決が回避され、4月11日には江戸城無血開城(4月11日参照>>)となりました。
ただ、この無血開城によって、江戸の町を火の海にする事は避けられましたが、負けを認めた以上、当然の事ながら、この時点での徳川家の存続は風前の灯火・・・官軍の主流が、北陸・東北へと進む中、幕府の一員として納得のいかない一部の者が抵抗を続けます。
江戸幕府・最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の護衛として上野・寛永寺にいた彰義隊(しょうぎたい)は、慶喜が水戸にて謹慎中の身となっても、なおも寛永寺に籠り、5月15日には、包囲した官軍との間で上野戦争となります(5月15日参照>>)。
さらに、上野戦争で敗れた彰義隊の一部が振武軍(しんぶぐん)と名を変え、5月23日には飯能戦争へ突入(5月23日参照>>)となるのですが・・・
そんな幕府の武士による抵抗と前後して、やはり慶喜のもとで遊撃隊(ゆうげきたい)として鳥羽伏見の戦いを駆け抜けた人見勝太郎(ひとみかつたろう)と伊庭八郎(いばはちろう)が、若き藩主・忠崇を訪ねてきたのは4月28日の事でした。
もちろん、日頃の忠崇の幕府=将軍への篤い思いを知っての訪問・・・「徳川家の存続を目指して、ともに戦いましょう」という事です。
忠崇は考えます。
わずか1万石の請西藩・・・とても官軍を相手に戦える軍事力はありません。
しかも、忠誠を誓う将軍・慶喜は水戸で謹慎して恭順姿勢・・・藩主である自分が自ら挙兵したなら、藩も領民も戦いに巻き込む事になる・・・
そして、忠崇は決断します。
閏4月3日を以って、なんと、59人の藩士を連れて、自らが脱藩・・・浪人の身となって遊撃隊とともに参戦するのです。
藩主の脱藩!
もともと佐幕派(尊王に対する幕府側)だった請西の領民たちですから、藩主が立てば、自分たちだって、ともに玉砕する気持ちは持っていましたが、その領民のために、自ら脱藩して戦おうとする藩主に大いに感銘・・・この前代未聞の出来事に、彼らの出陣を見送る村人は、皆、道ばたに土下座して、その武運を祈ったと言います。
こうして、戊辰戦争に挑んだ忠崇でしたが、中心人物である人見が留守の間に勃発した箱根戦争(5月27日参照>>)では、小田原藩の寝返りに遭い、奮戦空しく、撤退する事に・・・熱海で、かの人見と合流した忠崇は、箱根で重傷を負った伊庭を品川沖に停泊中だった榎本艦隊に預け、長岡城奪回作戦を展開中の奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(7月24日参照>>)を応援するため、東北へと向かいます。
ウデに覚えのある忠崇は、一連の戦いでも最前線に立って戦う姿勢を見せますが、さすがに家臣たちに「殿様は後方で・・・」と、たしなめられたりもしています。
しかし、ご存知のように、東北での戦いは、連戦連敗となってしまいます。
やがて9月に入って、頼っていた米沢藩・仙台藩が相次いで降伏すると、もはや手を組んで戦う相手もなくなりました。
そんな時、忠崇は、徳川家の存続と慶喜の命が保障された(5月24日参照>>)事を知ったのです。
実際には、5ヶ月前の閏4月29日に決定していた事ですが、各地を点々としていた彼の耳には入っていなかったようです。
このニュースを聞いた忠崇は、
「もともとの願いが叶った以上、この先の抵抗は私利私欲の無意味な戦い・・・戦いのための戦いになる」
と、あっさりと降伏します。
この決断一つをみても、彼が優秀な人物である事がわかります。
なんせ、脱藩して賊軍としておかみに抵抗したのです。
おそらく、死を覚悟しての投降・・・
自らの死を目の前にして、うろたえて悪あがきする事なく、冷静に先を読むわずか21歳の青年は、家臣と引き離され、新政府によって監禁される事になります。
しかし、幸いな事に切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(1872年)に釈放され、晴れて自由の身となりました。
・・・とは、言え、忠崇の人生は、ここからが苦労の連続でした。
そう、彼が脱藩したおかげで、林家の家名は存続しましたが、当然の事ながら、当主は甥の忠弘が継いでいますから、彼は、何もないゼロからのスタート。
維新直後は、たとえ、幕府側で戦った過去があっても、一国の大名=藩主なら、華族という特権が与えられていたわけですが、彼には、それが適用されません。
裸一貫となった忠崇は、なんと、地元で開拓農民として、元自分が治めた、その地を自らの手で耕すのです。
その心を思うと、とてもお気の毒な思いがしますが、やはり、それは、元領民たちも同じ・・・あまりにも気の毒に思った誰かの口利きで東京府の下級官員となりますが、それはそれで、忠崇には、何か引っかかる物があったのでしょうか、わずか2年でその仕事をやめ、今度は、函館にて物産商の番頭として働きます。
その後も、大阪で役所の書記をやったり・・・と職を転々としながらの20年・・・普通の没落武士より、はるかに苦悩の日々を送った事でしょう。
そんな彼の汚名が晴らされるのは明治二十六年(1893年)・・・林家の嘆願がようやく聞き入れられ、林家への復帰が許されるとともに、華族の一員となったのです。
晩年は次女・ミツさんと暮らし、ようやく平凡な生活ができるようになった上、94歳の長寿を真っ当したおかげで、大名経験者で最後の人となり、ときおりは、戊辰戦争の生き証人として、マスコミからインタビューを受けるなど、おおむね幸せな生活を送られていたようです。
こうして、昭和十六年(1941年)1月22日、94歳の大往生を迎えた忠崇ですが、彼の時世の句というのは、実は21歳のあの時に詠んだもの・・・
そう、官軍に降伏して、一旦、死を覚悟したあの時です。
♪真心の あるかなきかは ほふりだす
  腹の血潮の 色にこそ知れ  ♪
なんとも、武士らしい、覚悟あふれる句です。
そして、もう一つ・・・彼が晩年に詠んだ句があります。
♪琴となり 下駄となるのも 桐の運 ♪
世襲の是非、親の七光りが目に付く今日この頃・・・確かに、2代目・3代目にも優秀な人はいるでしょう。
しかし、一般とは、スタートの時点で違うその得々人生・・・主君のために、その世襲を捨て、底辺の下駄となった彼の人生は、単なる3代目では味わえない有意義なものだったに違いありません。
あの若き日の決断が間違いではなかった事を、晩年の句が証明しているような気がします。
 .

2019年6月9日日曜日

小和田家と新皇后雅子さまOwada family and New Empress Masako-sama

小和田家と新皇后雅子さま
Owada family and New Empress Masako-sama
    


雅子さまの父方のおじい様は 小和田毅夫さんです。

小和田毅夫さんは、昭和21年高田中学校長として赴任した。
新皇后であられる雅子さまのお父様であられる 毅夫さんの次男大和田恒さんは高田中学二年生に編入されました。
      
昭和22年11月高田中学3年の記念写真

昭和22年4月から6・3制が発足した。この学年を含め4箇学年の生徒は6年間同じ学校で勉強することになる。

恒氏は勧誘されて文芸部に入った。後に機関誌の形で学校新聞を出すようになり、新聞部に変わった。
昭和24年3月新聞部の生徒たち

恒氏は昭和26年、東京大学文化Ⅰ類に合格した。

昭和28年6月木造第2棟校舎の着工式
前列左に小和田校長
この年、体操部は国体優勝、スキー部が全国高校スキー大会総合6位となった。

昭和30年頃高田高校で県高校体操大会
小和田校長は国語漢文が専門だったが体育、理科などの会の会長でもあった。

昭和31年体操部演技発表会

中央に小和田校長


 昭和32年、火災により後者の大半を消失しました。
焼け跡の整理に5日間かかった。作業が終わると全校集会が開かれ、小和田校長が労を労い、全員で校歌を歌ったという。小和田校長は声をつまらせてむせび泣かれたという。
           
        
 昭和33年4月7日小和田毅夫校長の離任式終了後教職員、生徒全員が校門の所でお送りしました。


平成2年9月母校高田高校で小和田恒氏の講演会があり、同期生による懇親会に出席なさり、高校時代を懐かしんだ。
  


     小和田恒氏は平成31年4月15日高田高校で
145周年式典にて記念講演をされました。

小和田恒様のインタビューより
1945年の敗戦後日本が急激に変貌していく中、高田旧制中学校、新制高等学校と一貫教育の環境で多感な少年時代を過ごしたことは、その後の私の生き方に決定的な影響を与えたことを痛感します。
今の高田高校生に臨むことは、心を世界に向けた人生を送ってほしいということです。自分の住む地域社会が世界の一部であり、自分自身が一人の人間として、地球と言う一つの社会の中で生きているのだという自覚を持って生きていく、開かれた心こそが大切なのだと思います。
その意味では地球社会のための働くことも、国のために一生を捧げることも、世間の役に立つ仕事をすることも、それぞれに大切なことです。
皆さんが自分の人生を振り返る時が来た時に、一人の人間として、立派に生きた一生だったと感ずることが出来るような人生を目指す気持ちを持って、毎日を送ってほしいと思います。それが、地域のため、日本のため、世界のために役立つ生き方に繋がるのだと、私は考えています。
第一義は上杉謙信のことばです

畏れ多くも、
新皇后雅子さまのお父様小和田恒氏は
小生の高田高校大先輩にあられます。
(以上は 令和元年6月 高田高等学校 学祭出展資料に基づきます)

2019年6月7日金曜日

高齢者事故に緊急提案

緊急提案
交通安全関係省は、「高齢者運転能力自己判定表」をすぐ作成し、高齢運転者に配布せよ。
①運転免許者は自己判定、数値化すること
②数値がレベルに達していないものは、運転を自粛すること

2018年10月11日木曜日

長寿の心得 The secret of longevity (The new version)

長寿の心得
The secret of longevity
(The new version)

人生は60才から
Life starts at 60.

70才でお迎えの来た時は
只今留守と言え

At 70, when death knocks at your door,
 tell him you're not home.

80才でお迎えの来た時は
まだまだ早いと言え

At 80, tell him he came too early.

90才でお迎えの来た時は
そう急がずともよいと言え

At 90, tell him you're not in a hurry.

100才でお迎えの来た時は
頃を見て
こちらからボツボツ行くと言え

At 100, 
tell him you're almost ready to go.






2017年10月29日日曜日

次元と人間

次元と人間

音楽を聞きながら水彩画を描いていて
一つの考えを思いついた

回転する四次元立方体(正八胞体)を三次元に投射したアニメーション

人間の次元感覚について

人間の眼は二つある
そのため上下、左右、前後の
三次元空間が解かる
物の運動と変化を見て
時間を知ることができる
運動(加速度)は時間の関数である

従って人間は
三次元空間+時間の
四次元を知ることができる


人間には耳がある
そのため時間の経過と
時間の不可逆性(戻らない)を
知ることが出来る

人間の耳は左右に二つある
そのため上下、左右、前後から来た音
(従って方向)を
知ることが出来る

だから人間は
時間+三次元空間の
四次元を知ることができる

また重要なことは
人間は身体(筋肉)で重力とその方向を
知ることができる
従って
初めて上と下が理解できる
そして、
前後、左右も理解できる

宇宙空間の二人の宇宙飛行士にとって
共通の上下方向は存在しない
つまり、共通の前後左右も無い
人間は四次元時空が
イメージできない
それは人間の脳の構造の限界のためである

以上
人間は時空と重力を
知覚することが出来る生き物である

アインシュタインは100年も前に
時空と重力を
統合した




2017年10月27日金曜日

謙信が見た風景 春日山城

謙信が見た風景 春日山城


約400年前謙信は春日山を歩き
こんな風景を見ていたのだろう
謙信は普段は
山下の御主殿におられたであろう



そして日課のように
本丸へ徒歩で登られたであろう




毘沙門堂
 毘沙門天







本丸からはるか頸城平野を望み

いつの日か天下を取ろうと考えたに違いない



ご主殿に戻る途中
赤い枯葉や
緑の苔が
謙信の目を楽しませたであろう


ご主殿はすぐそこである